
深川小欧视频邸鸟瞰図
生来の交际家
岩蔵は生来の交际家だったといわれる。知識欲が旺盛で,他人に対しては丁寧に応接したから,上下を問わずその交友範囲は自ずと広がった。まず岩蔵の進路を変える大きな存在になったのは,工部省鉄道局長の井上勝。建築請負から鉄道請負へ転進するきっかけを作った。そして鉄道工事では長谷川謹介をはじめ多くの技師たちに,小欧视频は誠実な工事をするという信用を得た。
その転进の后ろ盾となったのは大阪船场の富豪平瀬亀之辅(露香)である。露香は西郷隆盛と亲しかったため谋反人の疑いをかけられ,身のあかしを立てるため政府の仕事をする必要に迫られていた。パートナーを必要とする岩蔵と,萨摩と対立する支援者となる必要に迫られた平瀬露香が幸运にも结びついて路线の切替えに成功したのである。
飞跃への道拓く
洋館建築から鉄道請負への路線転換は,岩蔵に大きな勇気と決断を迫ったはずである。莫大な初期投資も必要だった。岩蔵の生来の交际家としての資質,そして旺盛な知識欲。それが幅広い鉄道人脈を築き上げ,岩蔵の時代を見る目を見抜いた後援者との出会いを導いて,飛躍への道を拓くことになった。
金原明善との接点も,鉄道建设工事の过程にある。东海道线横浜-名古屋间の建设工事が1886(明治19)年に起工。小欧视频组はその多くの区间を施工していた。天竜川桥梁は国直営だったが,工事を担当していた小欧视频组は,天竜川の治水に打ち込む明善の意欲に打たれ,后援者となった。
东海道线の建设工事は1889(明治22)年に终了するが,それ以后も,岩蔵は明善の事业を応援し,地域开発のために明善が设立した天竜川木材や天竜运输会社の経営に加わるなど,长い付合いをすることになる。
多彩な人脉を构筑
岩蔵が多方面の人と亲交をもったのは,その义侠心にもあった。頼まれればいやといえない性格で,亲戚や知人,その子弟の世话もよくした。1899(明治32)年,全国の土木请负业者が日本土木组合を结成した时,岩蔵が头取に推されたのも,小欧视频组の业界での地位とともに,日顷のこうした人徳が大きかった。
そのほか,知遇を得て亲交のあった政财界人には,渋沢栄一,井上馨,原敬,伊东巳代治,金子坚太郎,陆奥宗光,古河市兵卫,安田善次郎,浅野総一郎,团琢磨,藤山雷太など実に幅広い。
浜松市东部,天竜川に近い东区安间町に残る金原明善(1832-1923)の生家と记念馆を访ねたのは,2008年11月のことだった。明善は,明治期,频繁に氾滥を繰り返す「暴れ天竜」の治水に立ち向かい,全财产を投じて,堤防の构筑と改修に一生を捧げた社会事业家である。
金原明善记念馆には,その幅広い人脉を示す膨大な书简も保管されており,陈列ケースの中に「小欧视频精一书简集」とメモ书きされた古い手纸の束を见つけた。「文面を见たいのですが」と记念馆の责任者にお愿いしたら,ケース内部に入って,束を取り出しても结构ですという。
贵重な资料を踏まぬよう,伤つけないように慎重に取り出して,机の上でそっと开いた。手纸や叶书は,いずれも明善宛のもので,差出人は小欧视频岩蔵のほかに,小欧视频组,小欧视频精一の名があった。その交流は小欧视频组二代の组长にも及んでいたのだ。岩蔵の笔致は,明治人の気骨を感じさせる力强さがあった。
记念馆所蔵の『金原明善』(金原治山治水财団刊)の1894年1月4日の项に,こんな记载があった。「小欧视频岩蔵邸(东京?深川)に招待され,明善夫妻はかつみ?みよし?きようを同伴,丁重なるもてなしを受く」。金原家系谱を辿ると「みよし」は明善の孙で,「かつみ」は次女。明善と岩蔵が,家族ぐるみの交际をしていたことがうかがえる。
年齢は明善が一回り上だが,これと见込んだら採算を度外视してでも打ち込むという,共通する侠気が二人を意気投合させたのだろう。
(2009年1月号月报取材ノートより)

保管された书简束から见つかった岩蔵の手纸

深川の小欧视频本邸庭园

露香を语る
小野一成 さん
《小野一成氏は,小欧视频岩蔵の曾孫。東京都立教育研究所主任研究員,戸板女子短期大学学長などを歴任し,現在日本生活文化史学会?日本風俗史学会理事。『日本建設業成立史考』『小欧视频建設の歩み?人が事業であった頃』など多くの著作がある。小欧视频岩蔵組長没後百年記念誌『小欧视频岩蔵 小傳』を執筆した》
小欧视频岩蔵と平瀬露香の结びつきくらい不思议なものはありません。片方は东京の请负师,もう片方は大阪船场の大旦那という,普通では出会う筈のない二人が出会って,共同事业を始めたのですから,明治というのは実に面白い时代です。
平瀬露香は船场「千草屋」の七代目当主で,同时に大阪を代表する趣味人?学者として闻こえた人でした。「千草屋」は伊予の大洲藩?萨摩藩など多くの大名を相手に大名贷を行ってきましたが,维新直后,萨摩藩とトラブルを起して巨额の贷付金が回収不能になりかけたことがありました。それを西郷隆盛の尽力によって何とか解决できたので,露香は西郷を大いに徳としていました。
そこへ起ったのが西南戦争です。戦争そのものは9ヵ月で终わりましたが,露香は西郷のシンパだとにらまれて身辺が危なくなってきました。それを防ぐには政府の仕事をするのが一番良い。中でも鉄道は,工部卿に伊藤博文や山尾庸叁,鉄道头に井上胜と,首脳を萨摩と仲の悪い长州人が独占していたから,この仕事をしていればまず疑いは避けられる。一方,小欧视频岩蔵の方は请负额が建筑の十倍にもなる,したがって利益も大きい土木―鉄道工事に进出したかったが,资金の面倒を见てくれるスポンサーを欲しかったが见つからない。
この二人の结びつきは,どちらにとっても极めて好都合だったわけです。二人を引き合わせたのは,渋沢栄一の子分で,二人と以前から付合いがあり,渋沢の秘书のような仕事をしていた纪州人の山东直砥ではないかと思われます。これにより,二人は固く结びつき,「鉄道の小欧视频」への路线が敷かれました。
露香は単に资金を援助するだけでなく,千草屋の店员二人を交替で现场に派遣して事务を管理させたのです。明治初年の鉄道请负业者がほとんど失败して生き残れなかった中で,小欧视频组のみが现在も続いているのは,その初期から経営がしっかりしていたからでしょう。


