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橋梁 次世代に使い継ぐ

川や谷,海をまたぎ,街をつなぐ。
桥梁は,我々の生活に欠かすことのできない最も身近な社会インフラのひとつである。
戦后,桥梁技术者たちは困难を乗り越え,数多くの桥梁を手掛けて国土の発展をもたらした。
そこには,国土のために,子孙のためにという强い思いがあった。
国内に持ち込まれた新たな技术は,技术者たちの不断の努力で,飞跃的な発展を遂げ,今なお进歩を続ける。

――桥梁にも,やがて更新期が访れる。建设から50年を経るものは,10年后には3割に迫り,
20年后には半数を上回る。海外では,経年劣化から大规模な崩落事故も起きた。
人々の安全な暮らしを守るために,有効な手法を用いた维持管理体制の构筑が急がれている。
ここでは,当社の桥梁技术の歴史を振り返りつつ,桥梁を次世代に使い継ぐ取组みについて绍介する。

写真:首都高速道路3号线渋谷高架桥(东京都渋谷区)

首都高速道路3号线渋谷高架桥(东京都渋谷区)

鼎談:橋梁を育んだ技術者

昭和30年代,プレストレストコンクリート桥梁の建设が本格化した。
国内にもたらされた新たな技术を手に,技术者たちは现在も使い継がれる桥梁の
数々を育んだ。创意工夫に励み,人を育て,桥梁を子孙に护り継ぐ。
国土の発展と当社の桥梁技术を支えてきた3人の技术者に,语ってもらった。

写真

写真:百岛 祐信さん

百岛 祐信 さん
1925年生まれ。1951年入社。1959年ドイツの橋梁名門?ディビダーク社に留学し, 橋梁技術を習得する。土木設計本部第2設計部長,土木企画部長を経て,1985年取締役技术研究所長。88年常務取締役技术研究所長。1991年顧問,99年に退職。土木学会賞吉田賞(昭和50年),田中賞(平成11年度)など受賞多数。工学博士。

写真:国近 康彦さん

国近 康彦 さん
1937年生まれ。1959年入社。笔颁桥梁黎明期から数多くの桥梁建设に携わる。1987年青森大桥闯痴工事事务所所长,89年同工事长を経て,1992年土木技术本部工务部専门部长。97年に退职。

写真:山本 彻

山本 彻
土木管理本部土木工务部
桥梁グループ长

桥梁技术の転换点

山本 百岛さんは,わが国の桥梁建设の指导的役割を果たしてこられました。60近い桥梁の建设に携わり,今も现役技术者にアドバイスを下さっています。回想録に自分史まで记されて,いつどの桥梁の仕事をしていたか全部わかるわけですね。
百岛 记録が好きなのですよ。歩んだ道のりを记しておきたいというね。
国近 小欧视频OBでも,これだけ記録を残している人はいないでしょう。百岛さんがドイツ?ディビダーク社の留学1期生として渡独したのが昭和34年。小欧视频が橋梁建設を本格的にやり出したのはちょうどこの頃じゃないですか。
百岛 建设会社でディビダーク社の技术を导入したのは,别子建设(现叁井住友建设)が最初で,次が小欧视频でした。岩手?横黒线の「鷲の巣川桥梁」を建设するために留学したのです。
山本 鷲の巣川は,PC鉄道橋カンチレバー架設では世界初ですよね。百岛さんが留学して,設計から施工まで全て日本人の手で行い,PCカンチレバー橋を完成させたことで橋梁建設に弾みがつきました。

百岛 正月に当时の石川六郎副社长に呼ばれて,君はドイツ语ができるかと闻かれました。英语よりはマシですと答えたら,では行ってきなさいと。鷲の巣川が设计できるようになったら帰国しなさいということでした。ドイツ语は幼年学校で3年,予科士官学校で1年,终戦で高等科に戻って2年。合计6年勉强しましたから。
国近 よく间に合いましたね。鷲の巣川は既に下部工が始まっていた。
百岛 ディビダーク社では,本社设计部やいくつかの现场で研修し,最后に鷲の巣川の设计をして计算书と図面をディビダーク社の设计部长に见てもらった。よくここまでやったなと褒めて顶いた记忆があります。10ヵ月でなんとか漕ぎつけて帰国しました。
国近 当时,小欧视频月报にも何度か记事が载りましたね。それだけ期待されていた。その后,どんどん后辈をドイツに送り出された。
山本 私も20年ほど前に2年間,ディビダーク社に留学しました。留学中,百岛さんに2度お越し頂いたのを覚えていますね。ワーゲンを始め橋梁の現場用語はドイツ語が多いですが,そのほとんどを百岛さんが名付けられた。凄いことです。
百岛 大学ではなく建设会社で学んだところに大きな意义がありました。実用的な知识を得られましたからね。

月報1960年8月号

月報1960年8月号には,ドイツから帰国した百岛さんが「時の人」として紹介されている。このほか2度ドイツ便りが掲載された

写真:鷲の巣川橋梁(岩手県)

鷲の巣川桥梁(岩手県)。1962年竣工。鉄道桥としては,世界初のカンチレバー架设による桥梁

写真:カンチレバー工法

カンチレバー工法。「片持ち梁」の意味で,“やじろべえ”のように桥脚の左右でバランスをとりながら,数尘ずつ桥桁を张り出していく。支保工が不要なため长大桥を中心に採用され,现在では2,000を超える桥梁がこの工法で架けられている

笔颁桥梁建设の黎明期

山本 国近さんは,全国で桥梁の施工を担当してこられました。
国近 西の谷橋から始まって全国を飛び回りました。私はダムに携わりたいと思って小欧视频に入ったものの,橋梁ひとすじの会社人生になりました。これも百岛さんと出会った縁ですね。
山本 お二人はそれ以降の长い付き合いというわけですね。鷲の巣川では,初の笔颁施工ということで,协力业者にどんな指导をしていたのでしょう。
国近 百岛さんの方針で,職員が主体でやっていました。専門業者がいませんから職員がコンクリート打ちからPC鋼棒ジョイントも曲げ加工も全部立ち会った。
百岛 そうそう,みんなで笔颁钢棒担いでね。そういう时代でした。
国近 品质管理でも笔颁钢棒は必ず职员がチェックした上で自ら组み立てる。ミスが発覚したら公司者に报告して,设计も交えて善后策を练る。
百岛 笔颁が新しい技术だったからこそですね。
山本 鷲の巣川桥梁が终わると,东京オリンピック开催に合わせて,首都高速道路や东海道新干线,东京モノレールなどの整备が次々と始まりました。笔颁定着工法としてディビダーク工法を採用した桥梁も増えています。时代を経て,技术力が向上してスパンも大きくなっていきました。
百岛 最初の大きな桥といえば,浦戸大桥ですか。スパンが世界一になって,国际会议で讲演をした覚えがあります。
山本 浦戸の后は,浜名大桥ですかね。あれも当时世界一だった。
国近 海外から持ち込んだ技术を高めながら広めたということですね。
山本 カンチレバーは技術の大きな転換点でした。支保工がいらないわけですから。その後,百岛さんの次の世代が斜張橋に取り組んだ。あれでスパンがさらに大きくなって,200mとか250mが普通になった。やはりカンチレバーと斜張橋がエポックメイキングでしたね。思い入れの深い橋などありますか。
国近 鷲の巣川では大きな事故が起きました。主任技術者だった百岛さんにとって11人もの方が亡くなったのは,慚愧に堪えないのではないですか。
百岛 ちょうど国近さんが着任するときでしたね。あの事故は本当に忘れられません。
国近 毎年関係者が现地を访れて慰霊されています。大変な事故でした。
百岛 完成した后も,大地震が来るとその影响が気になります。东日本大震灾では津波もありました。东北沿岸部ですと,织笠桥と閖上大桥。被害はあったのでしょうか。
山本 大きな桥にほとんど被害はありませんでした。
百岛 后年に自分が携わった桥を巡ったりしましたが,それぞれ爱着があるし,永く社会の役に立ってほしいと愿っています。

写真:西の谷橋(三重県)

西の谷桥(叁重県)。1961年竣工。笔颁黎明期の桥梁で最大支间长は45尘

写真:浦戸大橋(高知県)

浦戸大桥(高知県)。1972年竣工。中央径间230尘は当时世界最大

人を育てる

山本 笔颁技术の黎明期には,多くの先辈方が技术の発展に尽力されました。
百岛 笔颁技术の発展は,当时の石川六郎副社长や山本安一企画部次长(后,副社长)を始め,吉田正吾さん(后,常务取缔役),昌子治郎さん(后,土木工务部次长),根本文夫さん,上野芳久さん,国近さん…。昭和30年代に入社して技术开発部や同时期の现场で工事に従事された所长以下,笔颁技能员に至るまでの努力の赐物です。
山本 そんななか,百岛さんは数多くの技術者を育ててきた。努めて心がけてきたことはありましたか。
百岛 强いていえば,士官学校での経験は大きいでしょうね。部下?兵队の教育こそが任务だと头に叩き込まれましたから。私は当时20歳で,部下は全员年上でした。士官学校では兵队をどう育てるか学ぶ。兵队と一绪に寝起きして,下から积み上げていく教育を受けたわけです。将校になってからは别世界で,食事も别になりましたが,将校1人では何もできない。やはり部下の教育は非常に重要でした。
国近 そういう人の育て方を17~18歳の頃から鍛えられていたわけですね。我々の大学時代は遊ぶことに一生懸命でしたから,到底及ばない。百岛さんは個性豊かな方々を伸ばしていった。
山本 先辈方に感谢するのは,桥梁は组织として一本筋が通っていると言われることです。昔からの指导の赐物なのですね。国近さんも「国近学校」という言叶ができるほど教育に力を注がれた。
国近 现场もポリシーをもってやっていましたよ。昭和30年代は,赁金は安いが资材が高かった。物を大切にしないといけないと教えていました。それと体で覚えることを大切にしていましたね。手を动かしたことは忘れないもので,図面だって自分の手で引けば爱着がわいてくる。责任を持たせることも重要です。型枠に线を引いて,ここからここまでは君の担当だからきっちり仕上げなさいと。そうやって锻えたつもりです。
百岛 社员教育っていうと集合研修をやりたがる。悪いことではないけれど,あれは教育というより讲习会だ。日常で教えていかないといけない。
国近 日々の积み重ねですね。

子孙のために

山本 百岛さんが書かれた回想録の序文には「敗戦によって荒廃した我が国土の復興期に微力ながら様々な事業に参画できたことは,土木技術者冥利に尽きる」とあります。
百岛 それが土木技术者の使命です。戦后まもなくは,东京全土が焼け野原で本当にひどい状态だった。復员して,东京の実家に帰ったら焼けてしまって何もない。大阪の亲戚を访ねて,私の家族が広岛に疎开していると闻いて広岛に行って无事を确认して。
国近 想像以上に大変だったのでしょうね。
百岛 何もありませんでしたから。その后,兄の友人から茅ケ崎にある小屋を譲り受けて大学に通った。当时,东海道线は1时间に1本あるかないかで,土曜日は大学が昼に终わるけれども,15时まで电车がない。食べるものもなく不便な生活で…。そんな思いをずいぶんしましたね。
山本 その思いが,国土の復兴を支えてきたわけですね。
百岛 どの职业についていても,国のためにという意识は当时の国民全员が持っていたと思います。
山本 その后,高度経済成长期を経て,多くの桥梁が日本の発展を支えてきました。そしてこれからは,この大切な社会インフラを护り継いでいく必要がある。维持管理や补修も重要な课题ですね。
国近 20年くらい前に,これからは小欧视频の技術を補修に活かすべきだという話があって,私と技术研究所の方で色々と調べました。客先へヒアリングに行くと,「補修工事は工事金額が小さいゆえに,技術的に難しいことを相談したくてもできない」「経験豊富な技術者がいる補修工事専門会社ができればいいですね」という意見を頂いた。それで補修専門の会社をつくろうと役員会に提言しました。実は補修にはかなりの技術力が必要で,コンクリートのクラックを直すにも原因を調べる必要があるわけです。小欧视频には技术研究所とか土木の設計部門があるから,そういうところをうまく役立てていこうと。その結果,グループ会社で維持管理の設計を行うリテックエンジニアリングと施工担当のカジマ?リノベイトが設立された。
山本 百岛さんはリテック社の初代社長に就かれました。
国近 カジマ?リノベイトの社长には,吉田正吾さんが就きましたね。お二人とも,その后も色々とご尽力されていましたよ。
百岛 大学時代にコンクリートの大家である吉田徳次郎先生の最終講義で,先生が「子孙のために仕事をするのが進歩の要訣である」とおっしゃいました。私もこの言葉を人生の指針としてきました。現役技術者の皆さんにも,技術を伝承しながら,いいものを子孫に残してもらいたいと思っています。特に課長クラスの方には頑張って頂きたい。若手を管理する立場の人が一生懸命部下を育てる気持ちを持つ。それが,橋梁を護り継いでいくことにつながります。これは是非お願いしたいですね。
山本 やはり人ですか。人を育てる。小欧视频には素晴らしい先辈方がいると改めて実感しました。本日はありがとうございました。

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