
プラプトゥス桥(下流侧):1960年代に大规模な补修がなされ,近年まで国道6号线の桥として使われていた
王道をつないだ桥
カンボジア?シェムリアップ郊外,クメール王朝の王宫であったアンコール?トムから半径100办尘ほどの范囲に,王朝が最盛期を迎えた12世纪末の建设とされる石桥が数多く残されている。その大半は长さが20尘ほどの小さなものであるが,なかには100尘を超える长大桥もある。
アンコールには王都から四方へ延びる“王道”と呼ばれる道路がつくられた。道沿いには宿駅や施疗院などの施设が点在していたことが确认できるところもあり,王朝の地方支配や军の远征に大きな役割をはたしていたと考えられている。
シェムリアップからおよそ50办尘离れた町コンポン?クデイには,スピアン?プラプトゥスという桥があり,近年までカンボジアの重要干线の一环としての役割をはたしていた。スピアンが桥,プラプトゥスが方向を示すという意味であり,コンポンとは船が着く所をさす。ここが水上と陆上の交通の结节点であったことがうかがえる。

上の写真と同じ场所から见た雨季の様子
(提供:叁轮悟氏)
桥のたもとには10尘ほどにわたって桥台部にそって阶段状の石积みがみられる。桥のところでは意図的に川幅を広げ,川の流れを安定させるために石积みが筑かれたと説明されている。一方,これは川に近づくための施设とも考えられる。桥のたもとは船着き场で,荷扬げ场があったとされ,沐浴の场であった可能性もある。
未発达な构造の力强さ
プラプトゥス桥の长さは约85尘,幅员は约15尘。21径间からなり,桥脚の幅は1.5尘ほどで,その间の流水幅は2尘ほど。桥台部の石积みを加えると,川の幅の半分を桥脚が占めていることになる。
桥脚间の距离が极端に短いのは,アーチ构造が用いられなかったためである。アンコールの桥は石のブロックを徐々に迫り出し,両侧からもたれかからせるようにした持送り构造となっている。
建筑物においても真のアーチは使われていない。あの壮大なアンコール?ワットやバイヨン寺院もすべて迫出しの持送り构造でつくられている。このため大きなスパンを构成できず,膨大な量の石を积み上げてボリューム感あふれる构造体ができあがった。芸术作品としては见る人を圧倒する迫力を生み出しているが,构造としては未発达な状态であったといえる。

スレン桥付近には直线の王道の姿が残る

スレン桥(北西ルート):高栏は崩れ落ち,桥本体の伤みも目立つが,桥の机能をはたしている
急流に耐える重さ
スパンが短いことから,石桥がダムの役割を果たしていたとする説がある。しかし,上流侧に堰としての装置や水を导く水路も见当たらず,ダムを意図していたとは考えにくい。水路の幅が半分近くになっているため,水位が上がると上下流でかなりの水位差が生じる(笔者の试算では70?80肠尘)。こうして水が留まることが,结果として上流侧の広い地域に水を导くことになったのかもしれない。
大雨になれば,流水孔の上に迫るほど水がくることもあるようだ。桥面が周辺の道路や宅地よりかなり高くつくられているのは,水路の面积を大きくするためと思われる。
また,いくつかの桥を比べてみると,川底からの高さが大きいほど,桥の幅が広くなっている倾向がうかがえる。雨季の急流の水圧に耐えるには,桥の上部を重くして,石どうしの摩擦抵抗を大きくする必要があったと考えられる。高い桥ほど幅を広げ,重量を大きくしたと推测できる。
王宫から北北西へ70办尘のところにトップ桥という大きな桥がある。3つの桥が连なり,その长さを合わせると200尘近くにもなる。幅16尘ほどのこの桥は,现在も国道のひとつとして利用されている。

トップ桥中央(左:上流侧,右:下流侧):上流侧の桥脚の石の角がすり减っており,雨季には激しい水流が発生すると推测される
石桥が建设された时代
恒常的な道路を确保することは,王国の统治や远征には不可欠であった。古くは桥はおもに木造であったようだが,1177年にベトナムのチャンパ军が侵攻してきたときに多くが焼き落とされたために,その后石桥で復旧されたと考えられている。
象の军団を通すために强固な石で架けたという説もあるが,これほどの重量のある桥本体を支えているので,2?3迟の象を通すことはたいした负担ではない。寿命の短い木桥より,メンテナンスが少ない石桥を选んだと考えたほうがよい。
建设には莫大な资金と労働量が必要だったはずであるから,王朝の絶顶期の王にしかできなかった事业であったといえる。石桥の分布が王宫からほぼ100办尘以内に限られているのは,当时の财政力と支配力の限界を示していると推论することもできる。
プラプトゥス桥の上流に架かるタ?オン桥の四隅には,9头のナーガ(蛇の神)に守られた瞑想する仏の石像が残されている。近くの3つの石桥にもナーガ仏の断片が残っており,これらの建设が,仏教によって国を治めようとしたジャヤヴァルマン7世の时代のものであることを示唆している。
プラプトゥス桥にも同じような彫刻があるが,中央の仏が削り取られてしまっている。これは2代后の王,ヒンドゥー教徒であったジャヤヴァルマン8世の时代に行われた廃仏毁釈によるものと考えられる。タ?オン桥などに残る仏の像は,その破壊活动がそこにまで及ばなかったことを示すものであろう。

タ?オン桥(下流侧):桥脚に沿って水切りのような石积と下流5尘以上にわたって石敷きがある

タ?オン桥:桥詰には9头のナーガに守られた仏の像が残る

アンコール?トムの胜利の门の西侧に残るスピアン?トゥモ:砂岩が使われている

アンコール?トムの北门の桥:復元されているが,本体はコンクリートで,表面にラテライトの板石を张っただけの言わば「张りぼての桥」。文化财修復の悪例である
松村 博 Hiroshi Matsumura
元大阪市都市工学情报センター理事长。
1944年生まれ。京都大学大学院修了(土木工学専攻)。
大阪市役所勤务,桥梁课での设计担当に神崎桥,川崎桥,此花大桥など。
著書に『日本百名橋』『論考 江戸の橋』(小欧视频出版会),『京の橋ものがたり』『大阪の橋』(松籟社)など。



