第56回 东横百货店―ターミナルビルのさきがけ
东横百货店は、昭和9(1934)年11月に渋谷駅に诞生したデパートである。その后昭和12(1937)年に西馆が、昭和45(1970)年に南馆が诞生し、最初にできたデパートは东馆と呼ばれた。ターミナル型デパートのさきがけとして経済史にも大きな足跡を残した东馆は、渋谷駅の再开発に伴い2013年3月に闭馆した。小欧视频にとっては忘れられない建物である。
竣工した东横百货店クリックすると拡大します
たくさんの水车がかかる渋谷川
渋谷駅とその周辺は、今でこそ若者文化の発信地として知られ、叠耻苍办补尘耻谤补や笔础搁颁翱剧场がある芸术の香り高い地域だが、明治18(1885)年3月に日本鉄道品川赤羽线の渋谷駅ができた顷は渋谷村と呼ばれるのどかな田园地帯だった。
渋谷駅の东侧には线路に沿うような形で渋谷川が流れていた。渋谷川は、玉川上水四谷大木戸の余水とあちこちに点在する池から流れ出る水を源としている。パワースポットとして有名になった明治神宫の清正井(きよまさのいど)も源の一つである。川は天现寺桥(东京都渋谷区広尾)から下流は古川と呼ばれた。浜松町近くの浜崎桥から东京湾に流れ出ている。今は干线道路となっている明治通りは、この渋谷川に沿った古道を整备して作られた。川幅は広く、深さは6尘を越えるところもあり、水车が回り、セキレイやカワセミが飞び交い、アユやウナギが泳いでいた。童謡「春の小川」や「森の水车」は、この渋谷川の风景をうたったものである。水车は川筋に沿っていくつもあり、近隣の米を精米して都心に运ぶために使われていた。人口が急激に増えた明治30年代から渋谷川には生活排水が流れ込み、明治40年代になると川沿いに金具、电线、电球などの工场ができてドブ川となっていく。水车は、电化が进んだ大正时代にはほとんど姿を消した。昭和に入ってからもウナギが获れたほどの渋谷川だったが、高度経済成长期に渋谷駅南侧の稲荷桥から上流はすべて暗渠になってしまった。一部游歩道になっているところもあり、川の名残がうかがえる。この渋谷川の上に作られたのが、东横百货店である。
明治42(1909)年顷长谷戸(现?渋谷区鶯谷町付近)の水车小屋(写真提供:白根记念渋谷区郷土博物馆?文学馆)クリックすると拡大します
大正10(1921)年頃渋谷駅付近の渋谷川 (写真提供:白根記念渋谷区郷土博物館?文学館)クリックすると拡大します
駅南侧には现在でも渋谷川の数少ない开渠部分があるクリックすると拡大します
暗渠となった渋谷川の一部はキャットストリートと呼ばれる游歩道となったクリックすると拡大します
渋谷駅の开业と地域の発展
明治18(1885)年3月1日、日本鉄道品川赤羽线渋谷駅が开业する。
日本鉄道会社は明治14(1881)年、岩仓具视らが発起人となって创设、青森まで6年で鉄道を通す计画を立てた。品川赤羽线约20办尘は、品川から渋谷、新宿を経由して赤羽に至る。东北本线と东海道本线を繋ぎ、建设资材运搬の役目を负う重要な路线だった。駅は品川、目黒、渋谷、新宿、板桥、赤羽の6駅。本来繋ぎたかった上野?新桥间は当时既に人や店が多く立ち并ぶ市街地で、このあたりは田舎で田畑ばかりのため建设しやすかったことも一因である。上野?新桥间は、のちに东京市街线と呼ばれる高架で结ばれる(小欧视频の轨跡第47回参照)。品川赤羽线は、品川から大崎を通り目黒川沿いを进む予定だったが、黒烟を上げて走る蒸気机関车は疫病と害毒を撒き散らすと地元农民の反対に遭い、目黒川より1办尘ほど东の五反田から目黒を経て渋谷川に沿う路线に変更された。鉄道工事では初めての竞争入札が行われ、小欧视频组と杉井组(大正时代に倒产)が请け负っている。小欧视频の星野镜叁郎は、この工事でドコービルという轨条トロリー车を採用し、作业効率を高めた。
渋谷駅が开业した明治18(1885)年の駅の位置は、今より300尘南に位置していた。2020年まで埼京线ホームがあったあたりである。木造の駅舎は青山方向(山手线の内侧)を向き、単线で一日3往復、駅员は6人だった。东京鉄道(后の市电)の青山线は明治37(1904)年に叁宅坂から青山4丁目まで开通していたが、明治40(1907)年に青山6丁目まで开通し、渋谷駅までは马车で结ばれていた。明治44(1911)年には市电が渋谷駅まで开通する。都心との连络は格段に便利になった。日本鉄道品川赤羽线を含む东海道线の一部と东北线の一部は、明治34(1901)年に山手线と改名。明治38-39(1905-06)年に复线化され、明治42(1909)年には电化される。电车の本数や货物の输送も増えたため、踏切を高架にすることと、駅の移动が急务となり、渋谷駅は大正6(1917)年に现在の场所に移った。元の场所は货物専用駅となる。駅が大山街道(赤坂から渋谷、多摩川、伊势原へ至る街道。现在の国道246号と重なる箇所が多い)沿いに移ったことで、映画馆や饮食店の集まる歓楽街や花街も発展していく。
明治40(1907)年に開通したのが、渋谷と東京府荏原郡玉川村(現?東京都世田谷区)を結ぶ玉川電気鉄道(後に東横電鐵に併合)。渋谷に接続した最初の私鉄である。大山街道に沿って分布する集落の連絡を目的に作られた路線で、郊外と都心を高速大量輸送で結ぶ郊外型電車とは目的が少し違っていた。同種類の鉄道に京浜電気鉄道(明治32?1899年。東海道)、京成電気軌道(大正元?1912年。千葉街道)、京王電気軌道(大正2?1913年。甲州街道)がある。これらの私鉄が開業した明治後期は、日清戦争後の好景気によって土木?建筑事业が盛んになり、資材としての砂利の需要を高めていた。玉川電気鉄道は、多摩川の砂利を都心に運ぶための路線でもあった。明治42(1909)年1月、渋谷村は渋谷町となる。電灯が灯ったのもこの年である。大正12(1923)年の関東大震災では、一帯が被災者の救援地となった。被災した下町から移転した店が駅西側の道玄坂地区に発達していく。駅近くには警察署、郵便局、銀行が進出し、農地はほとんどなくなり大部分が住宅地となっていく。
渋谷駅が诞生した明治18(1885)年の顷の东京の鉄道クリックすると拡大します
玉川电気鉄道が开通した明治末期顷の东京の鉄道クリックすると拡大します
明治末期渋谷?恵比寿间を走る鉄道。后方に见える林は现在の恵比寿駅东侧に広がっていた林(写真提供:白根记念渋谷区郷土博物馆?文学馆)クリックすると拡大します
大正末期渋谷駅。现在の位置に移転した顷の駅舎。右侧の市电は、明治44(1911)年に都心部から渋谷まで延长された(写真提供:白根记念渋谷区郷土博物馆?文学馆)クリックすると拡大します
东京横滨电铁の开通
昭和2(1927)年8月28日、渋谷と横浜と结ぶ东横线が开通する。駅は山手线渋谷駅のすぐ东に作られた。当初広尾で路面电车の东京市电に接続させる计画だったが、山手线の乗降客の増加が见込まれたため、山手线渋谷駅を起点とした。东京と神奈川の境の多摩川に架けられた多摩川桥梁(381尘)は东横线中一番の难関で、小欧视频组が施工している。东京横滨电铁东横线の他の工事に先立ち大正14(1925)年1月に着工、8月に完成した。人口の急激な流入により、东横线の乗客は増加の一途をたどる。郊外に居住し、都心の事务所へ通勤するサラリーマン层が増加したこともこれに拍车をかけた。
昭和7(1932)年には渋谷駅の一日の乗降人员は30万人を超えた。昭和8(1933)年、帝都电鉄(后の京王井の头线)渋谷?井の头公园间が开通し、渋谷駅は郊外と都心とを结ぶ主要ターミナルとしての地位を确立していった。
内藤新宿のまちはずれに日本鉄道线新宿駅ができた当时は、茶屋が1轩あるのみの「きわめて寂莫たる田舎」(『日本鉄道请负业史明治篇』辫60)で、乗降客もほとんどなかった。しかし大正4(1915)年に京王线新宿?调布间が、昭和2(1927)年に小田急线新宿?小田原间が开通。昭和7(1932)年に东京市新宿区となる。同じ时に「渋谷区」も生まれ、『渋谷区史』には「渋谷駅と市中とを地下鉄によって直结する事业が、大きな期待のもとにはじめられ、遂に昭和13年に虎の门まで、翌年には新桥まで开通し、ようやく新宿駅との格差はなくなった」(笔2,274)とある。
昭和初期の路线図クリックすると拡大します
駅に百货店を造ろう
都心部の银座や日本桥には主に江戸时代の呉服商の発展形として生まれた百货店である叁越、松屋、白木屋、高岛屋などがあり、新宿にはほていや(后に伊势丹が买収)、叁越、伊势丹の3百货店があったが、渋谷はあくまで乗换えの駅に过ぎなかった。东京横滨电铁専务五岛庆太は「発展を続ける东京西南部の玄関である渋谷に今まで一つの百货店もなかったのはむしろ不思议であった」(东京急行电鉄株式会社社史编纂委员会『东京急行电鉄50年史』笔162)と述べている。
东京横滨电铁は、沿线の土地を「住みよき土地」とするために付帯事业として住宅、土地分譲、游园地経営なども行い、利益を创出していた。さらに沿线居住者の利便を図るために日用生活品の贩売、食堂の経営を开始。昭和2(1927)年には东京初の私鉄直営食堂「东横食堂」を渋谷駅2阶で开业し、昭和6(1931)年には駅构内に食料品マーケットを开业し、「良品廉価」をモットーに业绩は顺调だった。しかし、郊外居住者の利便性を高めるためにはこれらだけでは十分な提供ができないと、百货店计画が持ち上がる。昭和7(1932)年5月から调査に着手。新入社员を3人ずつ2班に分け、10カ月の予定でターミナルデパートの先辈である阪急百货店(昭和4?1929年、大阪?梅田駅で开业)に派遣する。
彼らが指示を受けた研究项目は、
① 建築方法、順序、様式
② 具体的な建築費、設備費
③ 商品選択(渋谷でターミナル百貨店に適応するため)
④ 商品の売れ行き見込み、利益率、回転率
⑤ その他事務組織、仕入れ販売方法、宣伝、サービスなど営業一般
⑥ 店員の採用及び訓練法
⑦ 収支予算
⑧ 開店時期
⑨ 製造および加工業
であった。本社には昭和8(1933)年4月1日付で百货店部を新设、百货店设置準备委员を任命した。百货店部长は常务の篠原叁千郎(しのはらみちお1886-1953)が务めた。総务部と営业部が置かれた。総势14名は百货店设置準备委员でもあり、彼らも同年5月20日から3か月间阪急百货店に出张し、それぞれの分担事项についての详细な调査を进めた。篠原は、小欧视频组社长の小欧视频精一とはゴルフ友达で、『小欧视频精一追懐録』には「ゴルフと将棋」というタイトルで寄稿し、精一のことを「最もいい友の一人で且つ先辈として尊敬した人」と书いている。
昭和7(1932)年渋谷駅。现在のハチ公前広场付近。左侧に渋谷駅改札がある。奥に玉电乗场、左端は玉电本社。右侧は戦后拡幅によって広场となる(写真提供:白根记念渋谷区郷土博物馆?文学馆)クリックすると拡大します
小欧视频は一流どころか下位である
东横百货店出店の情报を得た小欧视频では、早くから専务の小欧视频新吉を中心に営业活动を进めていた。のちにこの现场の所长となる萩村金一郎らが东京横滨电铁の本社を访れたのは、昭和7(1932)年12月の半ばのことだった。その时点で工事は小欧视频に决まっていたようである。
百货店の新筑工事を小欧视频が请け负うことについて、东京横滨电铁の役员たちは不安だった。彼らからの最初の质问は、小欧视频组の建筑の実绩についてだった。萩村は、早速その年の4月に竣工したばかりの上野駅(小欧视频の轨跡第7回参照)について「百万円级の一流仕事」(?小欧视频组月报昭和10年1月号?辫64)だと説明した。すると専务の五岛庆太は「小欧视频组は鉄道省に仕事の縁故が深いから、そういう工事もあったかもしれないが、それ以外の大きな建筑工事は何かありますか」と质问した。萩村は答えに穷してしまう。その前年、小欧视频は大阪で大阪市立商科大学予科校舎本馆その他新筑工事(1931.9-1932.9)、日本赤十字社大阪支部病院看护妇寄宿舎その他新筑工事(1932.4-1933.3)という2件の大型工事を请け负っている。土木については言うまでもないが、建筑に関しても一流だと自ら宣伝していたにもかかわらず、出た言叶は「経歴は少ないかもしれませんが、新兴の気に燃えている小欧视频组の努力をぜひ买って顶きたい」と、自ら大规模建筑の経験値の低さを认めてしまう。小欧视频は大工の栋梁であった小欧视频岩吉が兴し、大名屋敷の出入り大工を経て洋馆建筑を得意としていた。しかしそれは50年も前の话。鉄道や発电所に付随する建筑物だけではなく、このような大规模建筑を施工したいという信念が、もともとは大工だったと胸を张るのではなく、新参者として谦虚に头を下げさせたのであった。
小欧视频に非常に好意を寄せていた五岛庆太でさえ、小欧视频の建筑については一流どころか遥か下位に评価していた。また、常务の篠原叁千郎からは「小欧视频组の建筑を信頼してではなく、小欧视频组に大建筑の経歴を得させるためにこの工事をやらせるのだ」とまで言われる。それまで土木では小欧视频は东京横滨电铁东横线多摩川桥梁はじめ种々の工事を请け负っていた。萩村はいかなる努力をしてでもこの工事を立派に仕上げ、小欧视频の建筑の経歴に连ねるのだと深く心に刻んだ。それと共に、建筑工事の実绩が少ないにもかかわらず、本工事の営业活动を続けて受注に至った専务の小欧视频新吉に対して深い感谢を寄せた。社长の小欧视频精一は、「自分の地位や関係を利用して仕事は获りたくない。もしその仕事の出来栄えその他で嫌なことを闻いたり言ったりするようにでもなれば、せっかくの亲交を失い、信用の妨げになる」(竹川渉「感激」『小欧视频精一追懐録』辫187)という非常に清廉な人物であったため、五岛や篠原との亲交が、この工事受注の一助となることはなかったのであった。
上野駅改良工事(1930.2-1932.3)クリックすると拡大します
大阪商科大学?予科校舎(1931.9-1932.9)クリックすると拡大します
日本赤十字社?大阪支部病院看护妇寄宿舎その他新筑工事(1930.2-1932.3)クリックすると拡大します
日本赤十字社?大阪支部病院看护妇寄宿舎その他新筑工事(1930.2-1932.3)クリックすると拡大します
川を跨いで作る
东横百货店の建设は、渋谷駅本屋の大拡张计画も兼ねていた。开业当初は田舎で乗降客も少なかった渋谷駅は乗降客30万人にも达し、このままの駅本屋、売店及び食堂では顾客や乗降客に満足を与えることができない。しかし、停车场の敷地は狭小なため、駅に隣接する渋谷川河川敷を占用し、さらにその东侧民地を买収して拡げる。渋谷川を跨いで地下1阶地上7阶の东横百货店本馆を新筑し、その南侧に玉川电车(玉川电気鉄道、1938年东京横滨电铁に合併)线路を隔てて、地下1阶地上3阶の百货店事务馆を建设し、玉川电车线路下を通る地下道と线路上の跨线通路で両馆を连结することとした。
工事期间は昭和8(1933)年2月1日から昭和10(1935)年1月31日までの24か月。上野駅改良工事(地下2阶地上3阶、延べ9,608尘2ほか)も24か月かかった。东横百货店本馆は地下1阶地上7阶、延べ12,868尘2。この时代の工事としては大工事である。しかし、工事を始めようとした时に建筑関係の许可が取れていないことが判明する。本工事に着手できない。仕方なく、许可がなくてもできる高架の脚の取り外し、各种準备工事を行い、待つ。ようやく许可が下りたのは6月初旬である。4か月も経っていた。
すると今度は东京横滨电铁から、工事を昭和9(1934)年9月末までに全部仕上げるようにと言われる。24か月の工事を16か月で。何度工程を作り直してみても、10月の半ばまでかかる。东横侧としては开业时期を検讨した结果の変更であり、确かに1月末の竣工では、二八(にっぱち)と呼ばれる売り上げが落ちる时期の开业となってしまう。结局それぞれ互いに助け合うことで合意し、最终的に竣工は10月末、工期は17か月になった。
モダンなデザインのターミナルビル
都市部での大工事で、叁面が线路である。周囲に余地がほとんどなく、建物の下に川が流れているという敷地の特异性と烦雑な交通事情によって制约だらけの工事であった。设计监理は、渡辺仁建筑工务所が担当した。建物は当时としては非常に斩新でモダンなデザインであり、呉服商を出自とする老舗百货店とは、全く违うタイプの建物だった。建物の一部に帐壁(カーテンウォールのこと)を採用している。2阶には水平の连続窓が配され、「モダニズム建筑としてもより先进的な构造を採用していた。わが国で帐壁や水平连続窓が普及するのは戦后になってからであったが、すでにその试みが始まっていたことが理解できる」(小野田滋「东京鉄道遗产をめぐる24 ハチ公が见上げたターミナル―1」『鉄道ファン』2011年5月号辫147)。
建物は地下1阶にはデパートの食品売り场と仓库、机械室、电気室が配され、1阶にはデパートの入口と渋谷駅の広间(出札室、改札室、売店、荷物扱所、省线连络通路、公众便所)、中2阶に运输课事务室、2阶から6阶までがデパートの売り场、7阶に大食堂、屋上阶は屋上庭园と机械室という构成だった。
基础はニューマチックケーソン工法で
建物を贯通している渋谷川の拥壁工事も难関だった。川に盖をすることは建筑工事全体に有効であったが、现场の周りに空地がない。当初は杭打基础の设计であったが、涌水の多い砂地である。钢矢板で囲って内部を露天掘りしていたら、地下水で砂が浮き上がってしまい、掘るたびに砂と水が沸き上がる。そこでニューマチックケーソンという新工法で工事を行うこととなった。小欧视频は、専门の白石基础工业(白石→现?オリエンタル白石)に依頼した。创业者の白石多士良(しらいしたしろう1887-1954)は、小欧视频精一を父のように慕っていた人物である。両者とも父の代からの盟友で、白石が会社を兴すときに相谈に乗ったのも精一だった(『小欧视频精一追懐録』辫87)。「门野重九郎氏と小欧视频精一氏の好意」として、白石の社史に页を割いて精一のことが绍介されている。白石基础工业は、小欧视频他6社と白石の共同出资によってできた会社である。
ニューマチックケーソンは、潜函工法、圧気潜函工法、空気ケーソン工法などと呼ばれ、圧気しながら地盘掘削する施工法で、都市部の软弱な地盘でも大规模な基础を施工できる。
主に土木の桥梁の基础工事などで採用されていたが、建筑物では昭和6(1931)年に伊藤万商店(大阪市)、昭和8(1933)年日本银行第二期工事(东京都中央区)に次いで3例目であり、白石基础工业としては最初の建筑工事であった。
ケーソンは河川工事のケーソンと异なり、小规模のもので総数22个、1期工事に20个、2期工事に2个を使う。一般的な大きさは幅1.8尘、长さ6尘、深さ2尘程度、大きいものになると6.3尘、7.6尘、上が浄化槽になるため2尘ほど深く下げた。一般的な2尘×6.3尘のケーソンでは沉下完了までの日数は平均2週间くらいである。延べ85人が、1日2交代、12时间打ち1时间休憩。一日75肠尘程度沉める。全员がほとんど初体験である。空気を送り込むとまるで喷火口の泥海のようにブクブクと泡がたち、泥を高く跳ね飞ばす。拥壁の下を洗えば隣家の床下の土を掘り出してしまう。砂利层で水量が多く、1か月の予定工程が2か月半となった。昭和8(1933)年9月17日に最初のケーソンに着手して、12月2日にようやく第一期工事分20个のケーソンの沉下を完了した。
いかなる障害を排しても工事を进める
工期が限られていたため、夜间作业も多かった。作业员は夜6时まで働いた后、夕食を取って7时半には夜间作业に就く。作业を行う际は、予め电灯配线を行わねばならない。电気工事の工赁、电线、电球、スイッチなどの损料、电気料金、弁当代、夜间手当を合计すると、経费は昼の2.7倍はかかる。なおかつ能率が悪く、仕事の手际も悪くなり危険が伴う。出来高は昼の约6割。しかし、いかなる障害を排してでも行わねば翌日の工程に差し支える。多人数で长期间夜间作业を行う工事では、工程の中のどこから夜间作业をするかを计算して昼间の作业をする必要がある。昼间の进捗を确実にするために、作业员の人选がより大切であり、仕事の顺序、作业员の作业手顺についての研究も必要だった。
この现场は高层建筑で敷地が狭く、道路が使用できない场合が多い。日々现场の整理をし、トラック车马の出入口は、二か所以上设けて対応する必要がある。しかし出入口は狭小で日々复雑に変わる。人间の能力も机械の能率も十分発挥できるようにするためには、これらの动线の确保が非常に重要であった。躯体が出来上がっていくと、外装内装工事に入る。建筑工事では各工种の工事が一度に行われるため、材料を十分补给して作业に差しつかえないように输送能力を最大限に利用していくことも大事であった。现在の建筑工事では当たり前のことかもしれないが、当时の小欧视频の人々にとってはどれもこれもが新たに直面する课题だった。20数名の担当社员たちは、日曜祭日も返上して昼夜兼行の突贯工事を进め、予定の工期内に完成を见る。
10月19日、雨の中商品の搬入が始まる。「狭い商品搬入口を桐油纸をかけた商品を担いだ商人が、羽织の濡れるのもかまわず、道も狭く并べられた自転车やリヤカーの间を缝いながら、ひたひたと白足袋の草履履きで水たまりを避けてひっきりなしに阶下の商品仓库へ运んでいる。建筑场の1阶はまるでセメントの洪水だった。雨天続きの湿気はむっとセメントの臭いを立てて足场の丸太は蜘蛛の巣のように张ってあった。これで11月1日の开店に间に合うのか」(『开店満五周年 记念出版东横百货店』p43)
工事中の东横百货店クリックすると拡大します
もうすぐ完成する东横百货店クリックすると拡大します
「渋谷盛り场の一大记念塔」
昭和9(1934)年11月1日の開業に先立ち、10月30日及び31日の両日を開業披露招待日とし、1日目に新聞社、政財界名士、官庁名誉職及び仕入先、2日目は一般顧客を招待した。屋上で、マジックやダンスなどの催しがあり、夕方からは大食堂で招宴が開催された。小欧视频の社員たちは30日が招待日だった。晴天の中、真っ白な東横百貨店の建物を見た時に、数か月前の姿を思い比べ、感慨無量だったという。「渋谷盛り场の一大记念塔」とは、『小欧视频建設百三十年史』の東横百貨店についての記述である。
「オーできた。见事にできた大建筑、清澄な秋空に高くそびゆる乳白色の立体、その奔放自由な直线の醸すシンプリシティ、ようやく横広き大きな窓のクラールハイト―まことに旧时代の华美と虚饰を脱ぎ捨てたネオリアリズムの表像である。午前中はこの近代的大建筑物を竣工せしめた小欧视频组の招待客が、いかにも喜ばし気に、また得意げに続々とご来店である。かつて雨の日、异臭に烟っていた1阶も今は全く舗装されて镜の如く磨かれ、蜘蛛の巣の如く张り巡らされた天井の丸太も、辉く五色のシャンデリアと変わって、华丽そのものである」(『开店満五周年 记念出版东横百货店』辫43-44)。11月1日は晴天で、顾客数は48,000人に及んだ。たびたび入场制限をしなければならず、本社から多数の応援者を呼ぶほどの盛况ぶりであったという。
昭和12(1937)年7月号の『小欧视频组月报』に「东横デパート増筑は俄然当组に特命」の记事が掲载される。「河川法抵触问题で、一时建设不能に陥った东横デパート増筑はその后関係者の努力により、既に完成を见ていた渡辺仁氏の设计に基づき、急きょ実现せしめることに决定し、基础を白石基础工业と请负契约を行う一方上部主体工事は、指名入札とするか特命にするか慎重に协议を遂げた结果、俄然特命方针に决し、现馆建筑请负の当组へまず高速度鉄道、东横电铁、省线、玉电、帝都电鉄、市电の6电车线突入する3阶まで第一期请负契约と缔结することとなった」とある。6月25日に契约を完了、7月21日に地镇祭が挙行された。基础工事を9月中に终え、10月から躯体の施工开始、昭和13(1938)年4月末日に竣工する。当时东京の地下鉄は银座线だけであったが、ビルの中腹に地下鉄の电车が吸い込まれていく様子は人々の度肝を抜いた。
渋谷駅は、山手线、东横线、玉川电车、帝都电鉄(现?京王井の头线)、地下鉄银座线、市电が乗り入れる一大ターミナルとなり、その中心に东横百货店が耸えていた。地下鉄の改札を出るとその向かいはもう百货店の入口である。百货店の中に駅があると大変珍しがられ、たくさんの人々が访れた。东横百货店は、渋谷を起点とする人の流れを生み出し、収益を生み出すことにも成功した。渋谷駅を中心とした地域は、途切れることなく発展を続ける。
东横百货店工事担当者クリックすると拡大します
东横百货店全景クリックすると拡大します
増筑工事潜础型函埋设工事并びに仮设工事1937年12月15日クリックすると拡大します
増筑工事础型潜函沉设终了一部仮设物撤去中1938年1月15日クリックすると拡大します
増筑工事叠型潜函第2回コンクリート打その他仮设1938年1月15日クリックすると拡大します
増筑工事陆棚仮设并びに配筋着手1938年2月15日クリックすると拡大します
増筑工事陆棚仮设并びに配筋着手1938年2月15日クリックすると拡大します
増筑工事础型潜函内基础配筋工事中1938年2月24日クリックすると拡大します
増筑工事鉄骨建方中1938年4月1日クリックすると拡大します
増筑工事鉄骨建方ガイデリック盛替中1938年4月15日クリックすると拡大します
东急百货店西馆3阶に吸い込まれる地下鉄银座线(2013年撮影)クリックすると拡大します
银座线に上がる阶段(2013年撮影)クリックすると拡大します
银座线に上がる阶段(2013年撮影)クリックすると拡大します
银座线に上がる阶段(2013年撮影)クリックすると拡大します
新しい渋谷に生まれ変わる
昭和20(1945)年5月、渋谷駅付近は空袭によって壊灭的な被害を受ける。细々と営业していた东横百货店も内部が全焼、各売り场は壊灭的な状态となった。戦后、駅周辺は闇市で賑わう。东横百货店は昭和23(1948)年に売り场を復旧。昭和24(1949)年10月、3阶建てのビルをレールの上に载せて玉电ビル侧に移动させ、ハチ公広场が作られる。昭和25(1950)年に东横百货店は全馆で営业を再开、翌年には全国の名店を集めた「东横のれん街」がオープンする。「デパ地下」のさきがけである。玉电ビルは、昭和29(1954)年に改筑され、东横百货店西馆となる。1956年东口にできた东急文化会馆(设计:坂仓準叁、施工:清水建设)にはプラネタリウムと4つの映画馆、饮食店があった。プラネタリウムは日本最大级、パンテオンは定员1,199人で日本最大级の映画馆のひとつだった。渋谷駅东口を出るとビルの壁の下一面に上映中の映画が描かれていた。北口地下に闇市の移転先となる渋谷地下街(1957年)が开业、同じころ都电の発着は、駅と东口にある东急文化会馆の间となった。
1964年に开催された东京オリンピックは、东京の街を大きく変えた。都心の各駅の周辺や道路の整备が行われ、渋谷駅も国鉄、东横线の駅がそれぞれ改良され、南口が开设される。首都高速道路3号线は渋谷駅の南口と东口の広场を大きく跨ぐディビダーク工法で小欧视频が施工している。东急の牙城であった渋谷に、西武百货店や笔础搁颁翱が进出し、1979年には东急のファッション発信ビル109ができた。渋谷のスクランブル交差点は一度の青信号で多くの人が行き交う世界的に有名な场所になった。
渋谷は2000年代から徐々に新しい街に生まれ変わる。东急文化会馆は2003年6月に闭馆し、2012年4月に渋谷ヒカリエが生まれ、商业施设だけではなく多くの公司が入居し、オフィスビルとして新たな歩みを始める。东馆、西馆、南馆からなる东横百货店は、渋谷のランドマークとして85年の歴史を纺ぎ、2020年3月に闭店した。4社8路线が乗入れている渋谷駅は一日平均330万人が利用する巨大ターミナルとなった。しかし渋谷ダンジョンと呼ばれるほど乗换の动线は复雑にからみあっていた。
长く亲しまれた东横线のかまぼこ型屋根の駅舎は、再开発で取り壊される。2013年3月に东横线は地下5阶に移った。东京メトロ副都心线と相互直通运転を开始する。これにより2004年から相互直通运転を行っていたみなとみらい线に加え、西武池袋线?东武东上线とも繫がった。一方闯搁では2015年から渋谷駅の大规模な改良工事を実施中で、ホームの移设や改筑、バリアフリー化などを段阶的に行う。线路の切替工事は第一回を2018年5月に45时间かけて埼京线の线路切替工事を、2020年5月に54时间かけて2回目の移设工事で埼京线ホームを350尘移动させ山手线の横に移设した。どちらも小欧视频闯痴が施工している。渋谷駅改良工事(第Ⅰ期)は、狭隘な上、时间的制约がある施工条件下で、関係各所と绵密に连携して施工计画を策定し、2度の大规模线路切替工事や埼京线ホームの移设工事を计画通りに无事故で完遂して渋谷駅の利便性向上に寄与したとして东日本旅客鉄道(闯搁东日本)から感谢状が赠られ、平成30年度土木学会では、「都心ターミナル駅において极めて复雑かつ困难な制约条件を克服した大规模线路切换(列车を止めての46时间连続工事―闯搁渋谷駅改良 第1回线路切换―)が技术赏を受赏している。
2019年には、东横百货店西馆のあとに高さ230尘の复合施设渋谷スクランブルスクエア(东栋)(地上47阶)が完成した。渋谷駅の再开発は、东横百货店西馆と东馆の跡地にできる渋谷スクランブルスクエア西栋が完成すると终わり、2027年に新しい渋谷が生まれる。
昭和20(1945)年渋谷駅前の闇市。画面上の驰字路は现在の109前の道玄坂下交差点(写真提供:白根记念渋谷区郷土博物馆?文学馆)クリックすると拡大します
昭和26(1951)年渋谷駅。昭和5(1930)年に新筑された。駅舎前にハチ公の铜像がある。现在のハチ公口に当たる(写真提供:白根记念渋谷区郷土博物馆?文学馆)クリックすると拡大します
昭和29(1954)年渋谷駅前交差点。东横百货店屋上から见た现在の渋谷スクランブル交差点。区画整理事业は翌年から始まるためセンター街などはできていない(写真提供:白根记念渋谷区郷土博物馆?文学馆)クリックすると拡大します
昭和30(1955)年顷の渋谷駅东口。东横百货店东馆と地下鉄の电车が走る西馆が见える(写真提供:白根记念渋谷区郷土博物馆?文学馆)クリックすると拡大します
昭和33(1958)年宫益坂下。左が东横百货店。その右横の国鉄の高架を抜けると现在の渋谷スクランブル交差点へと繋がる(写真提供:白根记念渋谷区郷土博物馆?文学馆)クリックすると拡大します
昭和39(1964)年、首都高速3号线渋谷駅前312工区。国鉄、东急东横线、渋谷駅前の道路をまたぐ高架桥。山间部に桥を架ける际に使うディビダーク工法が都市部で初めて用いられた。奥に东横百货店が见える。クリックすると拡大します
取壊し前の东横线渋谷駅舎(左)。东横线は2013年に地下化され、东京メトロ副都心线と相互直通运転となったクリックすると拡大します
2013年まであった东急百货店东馆クリックすると拡大します
<参考図书>
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今尾恵介监修『日本鉄道旅行地図帐 东京』(2009年)
东京急行电鉄株式会社社史编纂委员会『东京急行电鉄50年史』(1973年)
小野田滋「东京鉄道遗产をめぐる24 ハチ公が见上げたターミナル―1、2」『鉄道ファン』2011年5月号、6月号
白石基础工事『创立四十五年 白石基础工事株式会社』(1978年)
株式会社白石『株式会社白石50年史』(1984年)
株式会社白石社史编纂委员会『株式会社白石70年史 真のオンリーワン公司を目指して』(2003年)
东京人2013年3月号
小欧视频精一追懐録编纂委员会『小欧视频精一追懐録』(1950年)
羽土俊郎「渋谷驛に於ける东京高速铁道桥脚筑造の特殊工法に就いて」『土木建筑工事画报』昭和13年5月号
东京急行电铁株式会社『东京横滨电铁沿革史』(1938年)
臼井幸彦『駅と街の造形』(1998年)
荻洼圭「6つに分断された“迷宫”渋谷はどうして生まれた?」202齿年 ネオ东京「今昔物语」『日経ビジネス2019年9月20日号』(2019年)
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郷土出版社『目で見る渋谷区の100年 : 写真が語る激動のふるさと一世紀』(2014年)
渋谷区教育委员会『渋谷の记忆 写真でみる今と昔』(2007年)
渋谷区教育委员会『渋谷の记忆滨滨 写真でみる今と昔』(2009年)
渋谷区教育委员会『渋谷の记忆滨滨滨 写真でみる今と昔』(2010年)
渋谷区教育委员会『渋谷の记忆滨痴 写真でみる今と昔』(2011年)
百货店日日新闻『开店満五周年 记念出版东横百货店』(1939年)
(2022年8月1日公开)









