第43回 ワシントン日本大使馆の茶室
アメリカの首都ワシントン顿.颁.にある驻米日本大使馆に、一白亭(いっぱくてい)という茶室とその前に広がる日本庭园がある。昭和35(1960)年に小欧视频が施工した茶室と庭である。日本が主権を回復してまだ9年(*1)。日本の建设会社にとって戦后初のアメリカでの工事だった。
| *1 | 昭和26(1951)年9月8日 サンフランシスコ讲和条约が调印され、日本は主権を回復する。 |
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茶室全景クリックすると拡大します
もはや戦后ではない
「もはや戦后ではない」と「経済白書」の結びに名文句が記載されたのは、昭和31(1956)年7月のことである。その前年の昭和30(1955)年、日本の国民総生産(GNP)は戦前の数値を越えた。「戦後は終わった」と明るい局面を見る意味に捉えられがちだが、実はそのあとに「我々は今や異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。」という文章が続く。経済企画庁は、新たな時代の幕開けを不安視していた。
しかし、高度経済成长は始まっていた。朝鲜特需(*2)を机に败戦で遅れていた产业技术が进歩し、大量生产方式が浸透していく。日本はこの时代、产业立国となるための基盘を筑いていた。昭和35(1960)年に成立した池田内阁の积极的経済政策によって、公共?民间の设备投资热は活况を呈する。电源开発长期计画、道路、鉄道、港湾の长期整备计画、治山治水5か年计画、住宅建设计画などが次々と発表され、昭和39(1964)年に开催が决定した东京オリンピック関连工事も続々と行われるようになっていった。一方で、炭鉱などの労働组合による労働争议や、60年安保闘争が行われた年でもある。
小欧视频ではこの年(昭和35?1960年)、受注高734亿円と业界最高を记録、ドル换算でも世界トップテンに入るほどの势いだった(*3)。製造业はこぞって工场を新筑?増筑し、ダムや発电所も次々と施工される。小欧视频の建筑の础ともいえる叁井不动产日比谷叁井ビルが竣工したのもこの年である。日本初の高速道路となる名神高速道路山科工区(「小欧视频の轨跡」第41回参照
)も完成、ほかに加贺叁湖干拓工事、八郎潟干拓工事、爱知用水爱知池工事など日本の农业土木にも贡献していた。20年前の昭和15(1940)年には1,000人规模だった社员数は3,800人にまで増え、毎年の採用数も昭和34(1959)年352名、昭和35(1960)年391名、昭和36(1961)年711名と増加の一途をたどっている。採用数一覧の昭和31(1956)年の备考栏に人事部が书いたメモには「景気上昇、物価安定。工事いよいよ活発となる」とある。同业他社と比べても社员数、採用数とも群を抜いていた。
| *2 | 1950年(昭和25)に勃発した朝鲜戦争に伴って日本にもたらされた特需のこと。昭和27(1952)年までの3年间に生じた特需は10亿ドル、间接特需は昭和30(1955)年までには36亿ドルに达した。 |
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| *3 | 小欧视频の受注高は翌昭和37(1962)年には、アメリカのモリソン?クヌードセン社に次いで世界第2位、翌年には世界第1位になった。 |
日米修好通商条约百年
昭和35(1960)年は、万延元(1860)年に日本とアメリカの间で日米修好通商条约が结ばれてから100年目にあたる。「幕府が派遣した日本最初の遣米使节、新见豊前守正兴の一行が、品川湾より米船ポーハタン号に搭乗し、ホノルル、サンフランシスコ、パナマを経由して、ワシントンに到着したのは西暦1860年(万延元年)3月25日であって、今年がちょうどその百周年にあたっている。」と小欧视频守之助(*4)は、『小欧视频建设月报』に寄稿している(*5)。
彼は「本年1月には岸総理が新安保条约调印のため再び渡米し、ちょうど百年前に、ブキャナン大统领が海外に派遣された日本最初の外交使节を引见したと同じホワイトハウスの広间において、大统领立会という异例の仪礼の下に调印を了した。」と、その歴史的意义について述べ、新たな日米関係について「紆余曲折に富んだ日米修好100年の歩みを顾みて、われわれは日米国交の今后の百年がさらに真のパートナーシップで贯かれることを衷心より念愿するものである。」と结んでいる。
日米修好百年にあたるこの年には、日米でさまざまな催し物が计画された。皇太子ご夫妻の访米、记念切手の発行、日本丸、海王丸の访米、勲章の下赐、亲善使节団の米国派遣、记念祝贺音楽会、晩さん会、记念ドラマ及び作曲募集、黒船祭などが行われた。
経団连、日本贸易会、日本商工会议所の财界叁団体で组织された「対米贸易合同委员会」は、ワシントンの日本大使馆内に纯日本茶室と庭园を寄赠することとなり、小欧视频がこの施工を请け负った。
| *4 | かじま もりのすけ(1896 -1975) 学者、経営者、政治家。法学博士。小欧视频の第4代社長(1938-1957)を務めた。著書「日英外交史」「日本外交政策の史的考察」により日本学士院賞を授与されている外交史家でもある。参議院議員(1953-1971)で外務委員会委員長をつとめた。後に「日本外交史」(全33巻、別巻4巻)、「外交論選集」(全12巻、別巻2巻)を著している。 |
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| *5 | 小欧视频守之助「日米国交百年の歩み 日米修好通商百年记念に寄せて」『小欧视频建设月报』昭和35(1960)年6月号笔19 |
茶室完成予想図(『小欧视频建设月报』1960年1月号笔25)クリックすると拡大します
日米修好百年の记念切手。
10円 太平洋の荒波を進む威臨丸
30円 ホワイトハウスでブキャナン大統領に謁見する新見豊前守ら狩衣烏帽子姿の使節団一行クリックすると拡大します
はじめての木造プレハブ施工
寄赠する茶室は木造平屋建、一文字瓦葺、庇部分は铜板葺で建筑面积は87.72尘2。当时神奈川県大磯町の叁井本家大磯别邸にあった国宝の茶室?如庵(*6)を模した叁畳半の茶室と、表千家四世の如心斉が考案したと言われる花月床(上段4畳つきの8畳)を六畳の畳廊下で接続するもので、茶室设计の第一人者である江守奈比古(*7)が设计した。床の间やふすまは、桂离宫(*8)のデザインを模している。
昭和34(1959)年11月、施工を开始する。工事は东京都新宿区柏木(现?西新宿7丁目)の小欧视频新宿作业所の敷地内に架设屋根(覆い)を作って行われた。建筑部(当时本社机构の中にあった现业部门。现?东京建筑支店)の大きな営业所の一つだった。茶室に使用する用材は、日本と比较して湿度の低いワシントンの気候を考虑して、自然木と比べて乾燥に强い合板を多用。现地では少数の职人で短期间に工事を仕上げなければならないことから、内壁は纸张り、外壁は涂装した合板、フレキシブルボード(*9)のパネル组み立て方式を採用した。また、当时はまだ新しい材料だったアクリル板なども使用した。木造のプレハブ工事というのは初めての试みだった。契约までの折衝は海外工事に详しかった建筑工务部の吉田斉一が、施工は建筑部の中村政晴作业所长が中心となってあたった。
翌年1月21日、このプロジェクトに関係する财界各所に披露するための展示会が开催される。1月22日付読売新闻には、「桃山时代风の豪华な茶室が作られ、日米修好百年记念にワシントンの日本大使馆に寄付されることになった」と写真付きで绍介されている。
展示会の翌日には解体工事が始まる。现地で组み立てるときのために、それぞれの部材にはナンバリングがされた。木材だけでも1番から400番までの番号が打たれたという。それらの番号を落とし込んだ図も用意した。木材、竹、瓦、畳、建具、硝子、造り付け家具、障子纸、茶道具、炭、各补助材、照明器具、庭石、石灯笼、蹲(つくばい)、塀材料などの材料はそれぞれ木枠、木箱计88梱包に格纳され、2月上旬、横浜港から船便でニューヨークに発送された。梱包から现地での开封まで日本通运が请け负う。工事费は输送费込みで2,800万円と発表された。现在の価値で约10亿円である(*10)。3月5日からワシントンで本工事に着工予定だった。
| *6 | 信长の実弟织田有楽斎(うらくさい)(1547~1621)が京都建仁寺境内に1618年顷建てた茶室。明治41(1908)年に叁井邸(东京市麻布今井町)内へ、昭和17年(1942)年叁井家别荘(大磯)へ移筑、昭和40(1965)年名古屋鉄道に売却、昭和47(1972)年、爱知県犬山市の有楽苑に移筑。昭和26(1951)年に国宝に指定されている。 |
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| *7 | えもり なひこ(1902-1992) 庆応大学経済学部卒。通产大臣秘书、ニッポン放送常勤监査役、大磯ゴム工业监査役、コッス测定器社长、観世会馆社长、富士エンドレスベルト社长、港商事社长などを务める。惭翱础美术馆内の茶室など茶室设计でも知られ、数多く手がける。 |
| *8 | 17世纪に八条宫初代智仁亲王と二代智忠亲王によって造られた。面积7万尘2。日本庭园として最高の名园といわれる。(宫内庁ホームページより)京都市西京区桂にある。 |
| *9 | セメントと补强繊维を原料に高圧プレスで成形した耐衝撃性?耐水性に优れた不燃ボード |
| *10 | 国内公司物価指数接続指数(日本银行ホームページより)をもとに计算。 |
仮设屋根の下に作られた茶室(小欧视频建设社报昭和35年2月11日号)クリックすると拡大します
茶室内部(小欧视频建设月报1960年2月号)クリックすると拡大します
精鋭部队9人でアメリカへ
昭和35(1960)年2月29日、八重洲の小欧视频本社第1号会议室で、渡米する吉田栄一理事、堀川昭夫副参事の歓送会とフィリピン?マリキナダム现地调査団歓迎会を合わせた歓送迎会が催された。当时海外工事は同年3月に终了した戦后赔偿工事第一号のバルーチャン発电所(ミャンマー)はじめ、ネヤマ排水トンネル(インドネシア)、ウジミナス製鉄所(ブラジル)、丸善石油製油所(シンガポール)など、土木系インフラ整备事业が多かった。この茶室工事は、规模は小さいが建筑では戦后初めての海外工事であり、日本の建设会社がアメリカ本土で施工する初めての工事でもあった。
吉田栄一は、当时建筑工务部次长。昭和14(1939)年に东京帝国大学建筑学科を卒业、卒业制作では、优秀作品に赠られる辰野赏を受赏している。卒业后、陆军に入队し、终戦时は建筑技官として松代大本営の筑造を担当していた。小欧视频の施工である。昭和21(1946)年春、小欧视频に入社。八重洲ビル作业所の工务主任を皮切りに座间出张所长など现场所长を歴任し、昭和27(1952)年企画监査部第叁部、建筑企画课长を务めた。不动产管理部や原子力部の创设にかかわり、昭和35(1960)年、ワシントン顿.颁.の茶室建筑を命ぜられた时は45歳。建筑工务部次长、不动产管理部次长、原子力部次长という多忙ぶりだった。
吉田と共にアメリカに向かったのは、30歳の堀川昭夫(てるお)である。昭和27(1952)年东京大学工学部建筑学科を卒业して小欧视频に入社、霞が関合同庁舎、新桥の堤ビルなどの施工に携わってきた。昭和35(1960)年当时は赤坂作业所の现场に所属していた。彼の抜擢は现场での実务経験と、头の回転の速さ、机転、度胸、英语力などが买われたものと思われる。
ほかに大工3名、瓦工1名、庭师(植木职人)3名、合计9名がこのプロジェクトのメンバーだった。庭师の3人は、当时すでにその名を轰かせていた造园家で东京庭苑社长の小形研叁(*11)と同社の若手精鋭2名である。
| *11 | おがたけんぞう(1912-1988) 佐贺県唐津市出身。旧制千叶高等园芸学校卒业。饭田十基に师事。1934年东京市技师となり保健局公园课勤务。1942年応召。1946年帰国し饭田十基主催东京ガーデナーに復职。1950年东京ガーデナー社长就任。1958年2月东京庭苑株式会社设立。1961年~82年日本大学理工学部非常勤讲师、1963年~69年日本造园学会理事など公职多数。1986年日本造园コンサルタント协会会长、ハワイ大学日本庭园、万博日本庭园、冲縄海洋博覧会热帯ドリームセンター植栽、都立昭和公园内日本庭园の设计施工など作品多数。1988年、オーストラリアのブリスベン国际レジャー博覧会で日本政府出展日本庭园の设计施工监理の阵头指挥中逝去。 |
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いざ、ワシントン顿.颁.へ
昭和35(1960)年3月1日、彼ら9名は羽田からワシントンに向けて出発する。羽田は昭和27(1952)年7月にアメリカから返还され、正式名称を东京国际空港とした。返还后诱导路、エプロンの舗装などが行われ、昭和30(1955)年5月にはターミナルビルが开馆する。まだモノレールなどの公共交通机関はなく、旅行会社が手配したハイヤーか、电车とバスを乗り継いで向かうのが普通だった。
羽田からワシントン顿.颁.までは、まずホノルルまで飞び、そこからアメリカ西海岸の空港を経由してアメリカ东海岸の空港まで飞行机を乗り継いでいった。当时、サンフランシスコ空港建家の天井は目地なし白一色の広大なもので、初めて渡米した堀川らは、强く印象に残っているという。この天井材はのちに日本でも広く使われるようになった。
昭和35(1960)年12月、小欧视频守之助会长と小欧视频卯女社长、小欧视频昭一副社长がアメリカ、ブラジル、アルゼンチン、ヨーロッパ诸国の视察に出た际には、午前10时に羽田を発ち、ホノルルまで6时间10分、そこから5时间でロサンゼルス、また5时间かけてニューヨーク、ワシントン顿.颁.まで车で2时间强という时间がかかっていた。飞行机に乗っている时间だけでも16时间余。乗り継ぎ时间も考えると丸一日以上かかっている。吉田たち一行と単纯比较することはできないが、直行便がなく、运行本数は少なく、情报伝达速度の遅い时代、ワシントン顿.颁.まで行くのは大変なことだった。现在なら成田国际空港からワシントン?ダレス国际空港まで直行便で12.5时间、毎日6便が运航している。
日本人の海外渡航が自由化され、観光での渡航が认められるようになったのは昭和39(1964)年4月1日のことである。自由化直后のハワイ9日间のパック代金は、364,000円。大卒初任给が19,100円、平均月収が6万円の时代である。「ハワイ旅行」には「梦の」という枕词がついた时代だった。1ドル360円の固定相场制の时代である。加えて外货の持ち出しは一人年间500ドルまで(のちに一人一回500ドルに缓和)という制限があった。
この时代の小欧视频守之助が羽田を出発した时の様子。タラップから见送りの人に挨拶をする。クリックすると拡大します
この时代の小欧视频守之助?卯女夫妻が羽田を出発するときの様子。出発案内はホワイトボードに书かれている。クリックすると拡大します
昭和35(1960)年のホノルル空港の様子クリックすると拡大します
当时の羽田空港の様子。太平洋を横断する国际线にはボーイング377ストラトクルーザーなど4発のプロペラ机が就航していた。クリックすると拡大します
この时代の羽田空港の様子。到着した机内から人々がタラップを降りてくる。クリックすると拡大します
ターミナルビルがない时代の羽田空港での入国手続きの窓口。クリックすると拡大します
雪のワシントン顿.颁.
アメリカは昭和27(1952)年に大統領に就任したアイゼンハワーが二期8年の任期の末期を迎えていた。昭和34(1959)年にはアラスカ州が49番目、ハワイ州が50番目の州として誕生した。首都ワシントンD.C.の緯度は仙台市と同じくらい。四季ははっきりしており、日本より春と秋が少し短く、夏と冬が少し長いといわれる。降雪量は比較的多い。時差はマイナス14時間。日本大使館は、2514 Massachusetts Avenueにある。ホワイトハウスの北西2.5kmほどの場所で、別名大使館通りとも呼ばれ、周りには各国の大使館が並んでいた。敷地の西側にはロック?クリーク(Rock Creek)が流れ、河岸の林は茶室には絶好の借景となっている。川の上流には7平方kmもある広大な国立公園ロック?クリーク?パークがあり、ロック?クリーク峡谷の自然を楽しむことができる。川は、桜で有名なポトマック河に注いでいる。
吉田たち一行がワシントンに着いたのは、3月2日のことだった。吉田が事前に外务省や日本大使馆と交渉して手配してあった宿泊场所は、日本大使馆の向かいにある日本大使馆アネックス(别馆)。彼らのために大使馆が雇った日本人女性が毎日日本食を作ってくれた。吉田だけは、义兄がアメリカ大使馆勤めでワシントン市内に自宅があったためそこに泊まっていた。
毎年雪の降るワシントン顿.颁.だが、この年の3月は特に寒かった。雪の早朝には、シャンシャンシャンと车のチェーンの音と、时折ぎゅーっという新闻配达の自転车の音で目覚める。昼间でも零度前后の寒さが続く寒天下での作业である。到着した3月2日に続き、9日、16日と毎週水曜日に雪が降り、そのたびに予定外の除雪を行わねばならなかった。一时は进捗の遅れが心配されたが、日本で施工した组み立て式であるために途中からは作业がはかどる。天候も16日の雪を最后にようやく春らしくなってくる。昼间の気温は5℃を越えるようになった。そして突然上栋式を挙行する计画が持ち上がる。
雪の积もった现场クリックすると拡大します
ゲイシャがいるティーハウス?
地元のワシントン?ポスト纸に茶室工事の记事が掲载され、ワシントン顿.颁.の市民が日本大使馆内の茶室に兴味を持ったのである。
3月12日付で"Japan's Building Tea House Here" という見出しだった。ワシントン日本大使館内の茶室についての建設経緯や説明が述べられているのだが、冒頭に"Washington will have its own tea house before the August moon"(ワシントンは8月の満月の前に自分の茶屋を持つ)と書かれている。"the August Moon"とは旧暦の八月十五夜、つまり中秋の名月のこと。"The Teahouse of the August Moon"は、アメリカの作家ヴァーン?スナイダーの小説で、昭和31(1956)年に映画化された。邦題を配給会社が「八月十五夜の茶屋」と訳した。物語は、終戦直後の沖縄に派遣されたアメリカの軍人たちや通訳と村人との交流や恋愛を描く喜劇で、最後に皆で作ったお茶屋から十五夜を眺めてハッピーエンドとなる。マーロン?ブランド主演、グレン?フォード、京マチ子、根上淳などが出演している。その後舞台化されてブロードウェイで1000回以上上演された(*12)。当時のアメリカでは誰もが知っている有名なストーリーであったため、この話とかけて日本大使館に新しくできた茶室を紹介している。「八月の満月の前に'tea house'ができますよ」と。しかし物語に出てくる'tea house'は四阿(あずまや)のような場所である。当時のアメリカ人がイメージする「芸者と関係のある茶屋」と混同している。困った日本大使館関係者は、各方面へ「茶室」=Tea Ceremony Houseと訂正発表するため、上棟式を挙行することとしたのである。
| *12 | 日本では昭和29(1954)年に冲縄で「料亭十五夜」として上演され、歌舞伎座でも水谷八重子(二代目。当时は水谷良重)主演で昭和31(1956)年に「八月十五夜の茶屋」として上演されている。 |
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ありあわせの上栋式
记事が出た3月12日は土曜日で、上栋式は翌週の日曜日である20日に决まった。吉田は堀川らと相谈し、ありあわせの品々と代用品で上栋式に临む。昭和35(1960)年3月20日午前11:30、日米协会会长など约20人のアメリカ人と、朝海大使夫妻ら大使馆関係者と日本人约40名、合わせて60名が列席。幔幕(まんまく。周囲に张り巡らせる幕。浅葱と白の幔幕が使われることが多い)の代わりに白いテーブルクロスを使用し、东京から持参した弊串(へいぐし。栋に上げる祝い柱)を立てて祭坛に见立て、お神酒、白米、塩を叁方に备え、赤松鯛(本来なら真鯛)、するめ、野菜をお供えした。大使馆侧の希望により7人の职人には法被(はっぴ)を着せる。
上栋式は「朝海大使、岛内参事官(文化情报係)、吉田の3人の玉串奉奠から始まった」と当时の「小欧视频建设月报」の记事では绍介されている。神主がいたわけではなく、大使馆侧と相谈して、现地の人にわかりやすい式次第にしたのだと推察される。玉串はネズミモチで作った。大工が栋に弊串を立て、植木职人が建物の四隅に白米、塩を盛る。简素で厳かな上栋式は、现地の人々に非常に珍しがられた。吉田は「白米と塩を饰る由来はわかるが、なぜするめを供えるのか」と质问を受けて闭口したと语っている。するめは噛めば噛むほど味が出ることから、「几久しくご縁が続きますように」という意味で使われているのだが、もう一つ、本来なら必要な「よろこぶ」意味に掛けられた昆布はなかったようだ。しかし、大使馆では日本料理を作るのだから昆布の方がありそうなものだが、するめがなぜあったのだろう。
上棟式は成功裡に終わり、3月24日付のワシントン?ポスト紙にその模様が大きな写真入りで紹介される。しかし、見出しは "No Geishas"と小さく書かれた文字の後に、"It's a Teahouse, But Not Exactly."とあり、本文には、Traditional Japanese Ceremoniesが挙行された記事と、玉串奉奠の写真、法被を着て屋根の上にいる職人とその前に積み重なる瓦の写真が掲載されている。「まだできてないけれど、これが茶室です。芸者はいませんよ」というところだろうか。
朝海驻米大使による玉串奉奠クリックすると拡大します
小欧视频组の法被を着てクリックすると拡大します
现地の树木を见つくろった日本庭园
约400尘2ある日本庭园は、京都の龙安寺(*13)を思わせる石庭と、松江にある菅田庵(かんでんあん)(*14)の庭を模した借景园、内路地式の茶庭からなり、筑地塀で囲むことになっている。庭石、石灯笼、蹲(つくばい)は日本から持ってきたが、植物は日本からの持ち込みを禁じられている。庭木には大使馆敷地内に植えられているもみじ、つつじなどを利用し、そのほかは、それらしい现地の灌木を集めて植栽した。小形研叁はこの后、国内海外でさまざまな庭を手掛ける。现在彼の造园観を研究し少しでも后世に残すために「小形会」という会があり、この庭园の修復工事や庭木の手入れなども行っている。
茶室の敷地は日本大使館の構内であるから、アメリカの工事と言っても一種の治外法権の場所で、工事の遂行に特に問題はなかった。しかし、茶室に使う給排水管や電気を敷地外から引き込む工事では地元の業者を頼らざるを得なかった。不案内な土地での灌木の買い付けや、引き込み工事業者の選定には、日本大使館主任庭園師で日系一世の三苫藤七(*15)が親身になって支援した。 また、月曜日から土曜日までが平日で、休みは日曜日だけ、それすらもままならない場合があるという生活の日本から、当時すでに週休二日で労働は時間単位だったアメリカに渡った彼らにとって、銀行も買い物も金曜日までに済ませなければならないアメリカでの生活に、最初のうちはとても戸惑った。特に堀川は、ウィークデーのうちに銀行へ行ってドルを下ろさないと、職人の給料を支払うことができないという責任を担っており、大変気をもんだという。
作业指示をする堀川(左)と、小形研叁クリックすると拡大します
| *13 | りょうあんじ 大云山龙安寺 宝徳2(1450)年创建の禅寺。石庭が有名だが作者不明。作庭は室町时代と推定される。75坪の白砂の空间に、大小15个の石が配置されている。 |
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| *14 | かんでんあん 岛根県松江市。寛政4(1792)年顷に松平不昧公の指図により建设された草庵风茶室(入母屋造茅葺屋根、一畳台目中板入り、炉は隅切り)、蒸し风吕式御风吕屋、加えて不昧公の弟松平雪川の设计の向月亭と庭が隣接し、これら3栋を含め菅田庵と呼ばれる。各建物や草木、飞び石の配置、御风吕屋に待合を兼ねさせる构想など、风雅な趣のある名席。国指定文化财。 |
| *15 | みとま とうしち(1886-?) 福冈の中农の二男として生まれる。1907年にアメリカに出発。渡米后オークランド市内で住み込み庭园师として働く。1943年オハイオ州クリーブランドにわたり、1949年1月、息子の住むワシントン顿.颁.に出て庭师を続ける。1952年から65年まで日本大使馆の庭园师を务めた。日本人会会长も务めている。 |
日本ブームとともに
春になり、早朝のしっとりとした空気の中で、大使馆のあるマサチューセッツ通りの街路树のハナミズキの蕾がほころび始める。やがて、青い空を背景にハナミズキの白い花が咲き乱れ、その间をリスが枝から枝へと飞び歩くようになる。4月にはポトマック河畔で简素な桜祭りがおこなわれる。日本から送られた桜は若々しく零れ落ちんばかりの豪华さであった。桜のトンネルの下を散策すると、月明かりの中にずっしりと花をつけた枝がその重みを跳ね返すかのように光っている。工事もようやく先が见えてきて、季节の移ろいを楽しむ余裕が出てきた。
现在では日本各地に普通にみられるホームセンターだが、当时の日本人にとってアメリカのホームセンターは、目を见张るものだった。自宅の修缮や模様替えに便利なように木製の単一材、组み立てられて规格化されたドア枠?扉をはじめ、涂料、屋根葺材、内装材、防水材などが施工の説明书を付けて贩売されており、労务赁金の高いアメリカらしさを强く感じたという。
予定工期を10日ほど残し、5月4日に茶室は无事完成、一白亭(いっぱくてい)と名付けられた。日米修好百年の「百」を「一」と「白」に分けた名である。また、如庵を模した茶室には、百年前に日米修好条约を结んだ时のアメリカ合众国第15代大统领ジェームズ?ブキャナン(1791-1861)の名前から、「舞花庵」(ぶかあん)と名付けられた。
堀川昭夫は、工事完了後に職人たちを空港まで見送り、その足でニューヨークやロサンゼルスなどの都市建築を視察、5月18日に帰国した。彼のレポートによると、「初めて見る超高層ビル群の間を通る道路に立つと、人工の街の底を流れる風を感じることができた。外装パネル類に使用されている大胆と思われる太い目地には違和感を覚えた。市内の工事現場を覗くとその建物の種類、規模、立地条件により違いがあると思うが、George A. Fuller Companyの場合基本的な組織は、プロジェクトマネージャー、内部の責任者としての監督者(superintendent)、タイムキーパー、フィールドエンジニア、女子事務員で構成され、作業員はサブコンによる雇用者とゼネラルコントラクターに直傭された作業員がいて、いずれも労働組合(Labor Union)への所属を基本としていた。作業員は初等教育を受けた後、労働組合の主催する各実業学校に入学し、一定期間を受講してから現場の実務に就く。そしてその腕を磨きながら、逐次賃金を上げていく。そのためにはその都度テストを受ける必要があった。ゼネラルコントラクター付き作業員は月給制であった。1日の労働時間は朝8時から夕方4時までの正味7時間制で、週5日制。大業者は、労働組合加盟員のみを雇っている。視察した中型現場では、監督者がトランシーバー片手に現場を忙しく移動しながら指示していた。ニューヨークの中心街では、日中大型移動式クレーンで直接資機材を揚げたり、コンクリートをバケット打設していた。」など、アメリカの建設事情は当時の日本と違い、驚くことばかりだった。
帰国后堀川は罢叠厂会馆、下田东急ホテル、大阪建物ビル、富士フイルム东京本社ビルで工务主任を、新宿叁井ビルで工事长を务め、东京堂千代田ビル、虎ノ门叁井ビル别馆では所长を务めた。昭和55(1980)年に建筑本部(现?东京建筑支店)工事部长、昭和59(1984)年に本部次长、1988年に东京支店副支店长を歴任し、1990年に小欧视频のグループ会社である大兴物产の常务、93年に専务となり、1995年に退职した。今も健在で东京建筑支店鹿和会(翱叠会)の相谈役を务めている。
吉田栄一は、工事の合间にマイアミまで近代建筑を撮りに行ったほどの写真好きで、工事完了后、アメリカやヨーロッパの建设事业を视察して回った际にも各地で建筑写真を撮りまくったという。8月15日に帰国した。帰国后は不动产管理部长、建筑工务部长を歴任し、昭和44(1969)年に広岛支店长に就任、昭和50(1975)年に常务取缔役として东京に戻り、昭和53(1978)年11月に顾问となった。昭和46(1971)年には重要文化财永富家の歴史をまとめた限定本「永富家」(装丁:田中一光、写真:石元泰博)の编纂委员も务めている。
その后の茶室と庭园
ワシントン日本大使馆の茶室と日本庭园は、週に一度一般公开されることになった。日本文化をきちんと理解してもらうため、见学者には解説をテープで流している。茶室は日本ブームに乗って土地の名物になり、见物人が列をなしたという。その年の12月にワシントン日本大使馆を访れた小欧视频卯女は、この日本庭园と茶室について「公园を见下ろす高台にあり、メンテナンスもよく行き届いた美しい庭园である」と述べている(*16)。现在は一般公开はしていないが、折に触れ、使用されている。
小欧视频はその後昭和39(1964)年にリトルトーキョーの再開発(「小欧视频の轨跡」第39回参照)に乗り出し、日本の建設会社として本格的にアメリカに進出する。
| *16 | 小欧视频卯女「南北アメリカところどころ 海外旅行记―1―」『小欧视频建设月报』1962年3月号笔31 |
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木々が茂る庭越しの茶室全景クリックすると拡大します
内路地クリックすると拡大します
障子越しに见る石庭クリックすると拡大します
石庭クリックすると拡大します
筑地塀越しの一白亭。このカットはこの年のカレンダーに採用された。クリックすると拡大します
茶室を见学する小欧视频卯女社长(1960年12月)(『小欧视频建设月报』1961年3月号)クリックすると拡大します
| <参考図书> 外务省ホームページ 外交史料 |
(2015年2月24日公开)















